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承久の乱

THE JOKYU WAR / 1221

朝廷が幕府を討とうとして、
敗れた。

一文でいうと

後鳥羽上皇が北条義時追討を命じて鎌倉幕府と戦い、幕府が短期間で勝利した内乱。以後、武家政権の朝廷への影響力が強まった。

短い概要

源頼朝の死後、鎌倉では将軍家と有力御家人の争いが続き、北条氏が執権として力を強めました。京都の後鳥羽上皇は、幕府内部の揺らぎを見て主導権を取り戻そうとします。

1221年、後鳥羽上皇は執権北条義時を追討する命令を出しました。しかし東国の御家人の多くは幕府側へ結集し、軍勢は三方から京都へ進みます。戦いは幕府の勝利に終わりました。

重要なのは「天皇と武士の最終決戦」ではなく、朝廷と幕府が併存する中で、軍事と土地支配の主導権が幕府側へ大きく傾いたことです。

人物の意図については後世の軍記や研究で解釈が分かれます。ここでは1221年の経過と、戦後の制度変化を中心に整理します。

4人と組織

01 / 院政を行う

後鳥羽上皇

京都で院政を行い、北条義時追討を命じます。敗戦後は隠岐へ配流されました。

02 / 執権

北条義時

鎌倉幕府の政治を担う執権。追討命令の対象となりますが、幕府側の結集に成功します。

03 / 御家人を動かす

北条政子

頼朝以来の恩を説き、御家人へ幕府を守るよう呼びかけたと『吾妻鏡』は記します。

04 / 戦後を支配する

六波羅探題

乱後、幕府が京都に置いた機関。朝廷の監視と西国支配の拠点になります。

前後関係をつかむ4段階

01

頼朝の死後を確認する

将軍の権威が弱まり、北条氏が執権として幕府運営を主導します。一方、後鳥羽上皇も院政のもとで独自の政治力を持っていました。

02

追討命令だけで崩れなかった

朝廷から命令が出れば御家人が従う、という後鳥羽側の期待に反し、多くの東国武士は土地と主従関係を守るため幕府側につきました。

03

幕府軍は京都へ進む

幕府は防御にとどまらず、東海道・東山道・北陸道から大軍を西上させます。短期間で京都を制圧し、朝廷側を破りました。

04

戦後に制度が変わる

上皇らの配流、朝廷側所領の没収、六波羅探題の設置によって、幕府は京都と西国への影響力を強めました。

この節は全体像をつかむための案内です。作品ページは結末を代替せず、知識ページは確定事項と未解決部分を区別しています。

何が重要なのか

01 / LOYALTY

権威より所領が結んだ

御家人は抽象的な武士階級ではなく、幕府を通じて所領を保障される具体的な利害関係にありました。

02 / DUAL RULE

朝廷が消えたわけではない

乱後も朝廷と天皇制は続きます。変化したのは、皇位や所領へ幕府が介入できる力の大きさです。

03 / RECORD

有名な演説も史料として読む

北条政子の演説は『吾妻鏡』に記された文章です。後世の編集を含む史料として、事実と表現を分けて扱います。

なぜ日本史の転換点なのか

鎌倉幕府は東国の地方政権から、京都と西国へ軍事・政治的に介入する全国政権へ近づきました。朝廷と幕府のどちらかが消えるのではなく、二つの権力が併存したまま力関係が変わった点が重要です。

知っておきたい
基本情報

  • 承久3年、1221年。
  • 発端後鳥羽上皇が北条義時追討を命じました。
  • 結果鎌倉幕府側が勝利し、後鳥羽上皇らが配流されました。
  • 制度幕府は京都に六波羅探題を置きました。
  • 長期的影響幕府の朝廷・西国への影響力が強まりました。

出典・参考資料

  1. 年表―歴史と物語国立公文書館
  2. 承久の乱(1221)典拠情報国立国会図書館
  3. 承久の乱 関連資料検索国立国会図書館サーチ

上記の公式・学術資料を確認し、要約と解説は「万象目録」編集部が独自に作成しました。作品案内は本編の代替を目的とせず、知識記事は確定事項と解釈を分けています。最終確認日:2026年8月11日。
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